本多忠勝 忠義一徹、信念の勇将
本多忠勝は、天文17年(1548)三河国に生まれ、
幼少から後の「徳川家康公」に仕え、一生涯、家康公を支え徳川幕府成立に大きな役割を果たしました。
「徳川四天王」、「徳川三傑」として、また、「家康いるところに平八あり」と言われるほど主従が固い信頼という名の絆で結ばれており、徳川家康の天下取りには欠かせない人物でありました。
武田信玄に「山本勘兵衛」、上杉景勝に「直江兼続」、豊臣秀吉に
「黒田官兵衛」有り! そして徳川家康に「本多忠勝」がいました。
名だたる大将には、優れたナンバー2がおり常に大将を支えています。
つまり、優秀な側近家臣がいなければ天下をとれないといっても過言ではありません。
このことは、四百有余年を超えた現代社会にも言えるのではないでしょうか。
本多忠勝は、天文17年(1548)三河国に生まれ、
幼少から後の「徳川家康公」に仕え、一生涯、家康公を支え徳川幕府成立に大きな役割を果たしました。
「徳川四天王」、「徳川三傑」として、また、「家康いるところに平八あり」と言われるほど主従が固い信頼という名の絆で結ばれており、徳川家康の天下取りには欠かせない人物でありました。
本多忠朝は、忠勝の次男として生まれ、父と同様に常に家康公の傍に仕えていました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に父とともに参戦し、その功績で父忠勝が伊勢桑名藩に移封される際、分家が認められ大多喜藩5万石の藩主となります。
忠朝は、父に劣らぬ勇猛果敢な武将で慶長19年(1614)大坂冬の陣にて活躍しますが、翌20年(1615)大坂夏の陣にて毛利勝永軍に突入し奮戦むなしく34歳の若さで討死となります。
また、大多喜在城の慶長14年(1609)上総国岩和田沖で座礁したスペイン船乗組員317名の命を救い、日本・スペイン・メキシコの友好交流の礎をつくりました。初めて接した異国の人々への暖かい思いやりの心は、教訓として現代社会にも脈々と生き続けているような気がします。
天文 17年(1548) | 忠高の長男として三河国蔵前にて出生(鍋之介と称す) |
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永禄 3年(1560) | 大高城兵糧入れで初陣、同年元服(平八郎忠勝を称す) |
9年(1566) | 19歳にして家康旗本先手役に抜擢される |
元亀 元年(1570) | 姉川の戦いにて朝倉軍を打ち崩す |
3年(1572) |
一言坂の戦いで殿(しんがり)を務め、家康軍撤退に功績 同年、三方が原の戦いで活躍 |
天正 3年(1575) | 長篠の戦いに活躍 |
10年(1582) | 本能寺の変に家康を諌めて「伊賀越え」を行う |
12年(1584) | 小牧・長久手の戦いで功績により豊臣秀吉から「東国一の勇士」と称賛される |
14年(1586) | 従五位下中務大輔に叙位・任官 |
18年(1590) | 小田原の戦いにおいて関東制圧の功績により上総大多喜十万石を与えられる |
慶長 5年(1600) | 関ヶ原の戦いで東軍の軍監を務め功績 |
6年(1601) | 伊勢国桑名十万石に移封 |
14年(1609) | 家督を嫡男忠政に譲り隠居 |
15年(1610) | 桑名にて逝去 63歳 浄土寺に葬られ、後に上総大多喜良玄寺に分骨 |
天正10年(1582) | 忠勝の次男として遠江国にて出生 |
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慶長 5年(1600) | 関ヶ原の戦いに父忠勝とともに従軍し初陣 |
6年(1601) | 上総大多喜五万石を与えられ分家 |
14年(1609) |
御宿沖で座礁したスペイン船乗組員317名を手厚く保護、家康・秀忠に謁見させる 同年、国吉原の新田開発を命じる |
16年(1611) | 万喜原の新田開発を奨励 |
19年(1614) | 大坂冬の陣にて活躍 |
元和 元年(1615) | 大坂夏の陣にて毛利勝永軍と奮戦するも討死、大坂一心寺に葬られ、後に上総大多喜良玄寺に分骨 |
寛永16年(1639) | 忠朝の遺児正勝が大和郡山十五万石藩主となる |
延宝 7年(1679) | 忠朝の孫正英が播磨山崎一万石藩主となる |
文責 山口總源